ひかりとは何か?
もちろん建物です。
では、建物にも想いはあるのでしょうか?
そんなふうに訊ねられると、たぶん誰でも、
「え? なんですかそれ……」
と、なります。
普通に考えれば、そんなものあるはずがないということになります。
建物というのは結局、木とコンクリート、釘とアンカー、ボルトと接着剤、ガラスと金属――そういったものの寄せ集めです。
木や金属に想いが宿るはずもない。それが常識です。
昔から建物には、想いが宿る、あるいは意思を持つ、そんな物語はたくさんあります。思い出すだけでも、シャーリー・ジャクソン、スティーブン・キングといった作家は、そんな物語をいくつも書いています。
もちろん、怖いお話ですよ(笑)
利用者さんたちが暮らし、その暮らしを支えている私たちがいる「高齢者グループホームひかり」にも、人と同じような想いがあるのではないか。そんな気がするときがあります。
人の暮らす家には、確かに想いのようなものが宿るのかもしれません。
超自然的な話をしているのではありません。
家には、その家で暮らす人たちの暮らし方というか、生活のありかたのようなものが残ります。新築のときは、ただの家だったものが、人が暮らし、時が過ぎると、ただの家が、まるで生き物のように、暮らしている人たちにあわせた形になっていきます。それははっきりとした形である場合もあるし、気配や雰囲気といった見ることのできないものである場合もあります。
当たり前の話ですが、私たちはいずれ「ひかり」を去っていきます。
私たちというのは、職員だけではなく利用者さんも、です。私たちにとって、それは宿命として受け入れるしかないことです。わかりきっていることであっても、寂しい気持ちになることがあります。
ですが、私たちが去った後も、私たちの想いがここに残るのであれば、寂しさもいくらか和らぐように思えます。
利用者さんや私たちの残した想いは、やがて「ひかり」に新しい利用者さんや職員が来たとき、その人たちに、「なんとなくここはいいなあ」とか「よくわからないけれど落ち着けるなあ」あるいは「ここにいるといいことがあるかもしれない」、そんな声にならない声を届けてくれるかもしれません。
それは私たちの想いであると同時に、「ひかり」と名付けられたこの建物が、いつか持つはずの想いだと私は考えます。
だから、このブログのタイトルは「わたしはひかり」としました。
■わたしはひかり